≪建国の日に憶う…有間皇子墳が紀国に築かれた意…≫ ― 2013年02月11日 09:58
……神武東征を導いた出雲祖神分霊祀る御坊・熊野神社最寄に墳丘…
和歌山県御坊市、日高川河口から約2キロ、左岸丘陵、熊野古道横に佇む「岩内1号(有間皇子)墳」
造営推定は7世紀“終末期古墳”時代、奈良飛鳥以外に類を見ない版築造営古墳。
すでに薄葬令が敷かれ、殆どの古墳の造営が無くなっていた頃に、異例の規模の方墳。副葬品には銀線蛭巻太刀等が納められ、棺は皇族級の証しとなる漆塗りの棺。
このような規模の古墳がなぜ紀国の地に…。
被葬者とされる有間皇子、世が世なら父孝徳の後を継いで世を司る立場だったが、中大兄皇子(天智天皇)の謀略にかかり、若くして刑死。白浜牟婁の湯への導線の中で賭され、最後まで仕えた近臣の司る地(塩屋最寄りの岩内)に埋葬されたとされるが、なぜここなのか…。
神武天皇が近畿東征の時に、熊野への霊剣献上や、山路険絶を八咫烏の先導の一助を受けたといわれる。
その神武東征の導きを示すように、出雲の熊野大社の社伝と整合するのが、御坊市熊野に存在する「熊野(ゆや)神社」の由緒。そこには「往古出雲民族が植民する際に、その祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の熊野(熊野本宮大社)に勧請する途中、当地に熊野神が一時留まりませる」と記されている。
孝徳天皇の息子として世が世なら後継の身に在った有間皇子、その余命を断った贖罪を天智天皇(中大兄皇子)、母斉明天皇、もしくは娘持統天皇が除霊祈祷に造営したのでは…。そう彷彿されるように、世の鎮静を待って、賭した途上の紀国に異例の規模で造営されており、その同時期に、総勢二千名に及ぶ前例のない大規模の行幸が、ここ御坊の地を愛でるように行われ、翌年に持統天皇は崩御している。
御坊・熊野神社その社殿に並ぶ最寄墳丘に有間皇子は葬られている。
神武東征を導いた熊野神を祀る「熊野神社」。この地は紀伊半島でも他に類をみない基層が潜在。
この着眼はまだ誰をも成しえていない観点…。
昨年提起させて頂いた古墳造営同時期創建の道成寺との南北位置。ふまえて、この地がまだ未開のまま眠る古代史開眼の素因ありと感じ、今後解明の使命を感じ検証へ…
(「東山の森Ark」を始動/HP)/建国記念日一考…。
和歌山県御坊市、日高川河口から約2キロ、左岸丘陵、熊野古道横に佇む「岩内1号(有間皇子)墳」
造営推定は7世紀“終末期古墳”時代、奈良飛鳥以外に類を見ない版築造営古墳。
すでに薄葬令が敷かれ、殆どの古墳の造営が無くなっていた頃に、異例の規模の方墳。副葬品には銀線蛭巻太刀等が納められ、棺は皇族級の証しとなる漆塗りの棺。
このような規模の古墳がなぜ紀国の地に…。
被葬者とされる有間皇子、世が世なら父孝徳の後を継いで世を司る立場だったが、中大兄皇子(天智天皇)の謀略にかかり、若くして刑死。白浜牟婁の湯への導線の中で賭され、最後まで仕えた近臣の司る地(塩屋最寄りの岩内)に埋葬されたとされるが、なぜここなのか…。
神武天皇が近畿東征の時に、熊野への霊剣献上や、山路険絶を八咫烏の先導の一助を受けたといわれる。
その神武東征の導きを示すように、出雲の熊野大社の社伝と整合するのが、御坊市熊野に存在する「熊野(ゆや)神社」の由緒。そこには「往古出雲民族が植民する際に、その祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の熊野(熊野本宮大社)に勧請する途中、当地に熊野神が一時留まりませる」と記されている。
孝徳天皇の息子として世が世なら後継の身に在った有間皇子、その余命を断った贖罪を天智天皇(中大兄皇子)、母斉明天皇、もしくは娘持統天皇が除霊祈祷に造営したのでは…。そう彷彿されるように、世の鎮静を待って、賭した途上の紀国に異例の規模で造営されており、その同時期に、総勢二千名に及ぶ前例のない大規模の行幸が、ここ御坊の地を愛でるように行われ、翌年に持統天皇は崩御している。
御坊・熊野神社その社殿に並ぶ最寄墳丘に有間皇子は葬られている。
神武東征を導いた熊野神を祀る「熊野神社」。この地は紀伊半島でも他に類をみない基層が潜在。
この着眼はまだ誰をも成しえていない観点…。
昨年提起させて頂いた古墳造営同時期創建の道成寺との南北位置。ふまえて、この地がまだ未開のまま眠る古代史開眼の素因ありと感じ、今後解明の使命を感じ検証へ…
(「東山の森Ark」を始動/HP)/建国記念日一考…。
≪バレンタイン、千余年へ届ける古墳の花≫ ― 2013年02月14日 10:27
……和歌山御坊・岩内の墳丘に佇む有間皇子墳。若くして逝った皇子に今も尚届くバレンタインの花束、馳せる想い伝わる佇み……
千三百余年前に中大兄皇子の謀略により無念の刑死となった有間皇子。齢19歳のあまりにも若い絶命と、生きていれば父孝徳の後を継いで多くの人望篤き世を築いたかもしれない皇子に、今も尚想いを馳せる人絶えず…。
その悠久眠る地が熊野古道横の岩内1号古墳。熊野古道横に静かに佇む墳丘に通年花束が届き、バレンタインにはハート型を装飾した花束やブーケが…。こんな素敵な表意に、今も息づく想いが感じられて嬉しく憶う…。
(於:岩内1号(有間皇子)墳バレンタイン飾り/ハート飾り&ブーケ)
千三百余年前に中大兄皇子の謀略により無念の刑死となった有間皇子。齢19歳のあまりにも若い絶命と、生きていれば父孝徳の後を継いで多くの人望篤き世を築いたかもしれない皇子に、今も尚想いを馳せる人絶えず…。
その悠久眠る地が熊野古道横の岩内1号古墳。熊野古道横に静かに佇む墳丘に通年花束が届き、バレンタインにはハート型を装飾した花束やブーケが…。こんな素敵な表意に、今も息づく想いが感じられて嬉しく憶う…。
(於:岩内1号(有間皇子)墳バレンタイン飾り/ハート飾り&ブーケ)

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