《《古代史シンポジウム『ここまでわかった日本の古代史』出席へ》 ― 2015年10月05日 10:05
《古代史シンポジウム『ここまでわかった日本の古代史』出席へ》 ― 2015年10月05日 10:07
《古代史シンポジウム『ここまでわかった日本の古代史』出席へ》 ― 2015年10月05日 10:08
《古代史シンポジウム『ここまでわかった日本の古代史』出席へ》 ― 2015年10月05日 10:09
《古代史シンポジウム『ここまでわかった日本の古代史』出席へ》 ― 2015年10月05日 10:09
今年の古代検証シンポジウムの集大成として開催された『ここまでわかった日本の古代史』へ記者席で参加(全3回即日完売)。
/詳しくは長丁場なので筆舌尽くし難いが、基調講演となった篠田監督の「終戦のポツダム宣言後、これまで培ってきた古来日本の歴史を米国デモクラシーを隠れ蓑のお仕着せが滅却しようとした。私はこの国が古代から培い大切にしてきた“神話の国”という歴史を葬られないよう後世に繋がねばならないと思った」と発意を述べられたのが骨太に響く。
/私にとっては、有間皇子墳発見者である森浩一先生が和歌山御坊で生涯最後の講演後に亡くなられた訃報を当時同日パネラーとして出演者だった髙山由紀子監督に連絡を入れたところ「今、中国を篠田監督と取材同行中。監督は卑弥呼を調べておられて、その手に今持っていらっしゃるのが森浩一先生の本でした」と奇遇が重なったとのこと!
そのことを閉会後楽屋で篠田監督に伝えた(監督はこの日のお話でも森先生のことに触れられた)
★
この会の指南役である上田正昭京都大学名誉教授(折口考古学師事)は、「朝廷成立の時期というのはとても重要な観点で、例えば倭国が日本、大王が天皇と称され方が変わった時期の探究などが東アジアとしての研究をも実り大きいものとなる」との開催の辞を寄稿。
/主催の角川文化振興財団・角川歴彦理事長は、「今回全国3回に分けての開催のきっかけは、上田正昭先生が『日本古代に関するここ50年の新発見はそれまでの何百年に匹敵する驚きに満ちている。松本清張さんやあなたのお父さん(角川源義)が存命ならばどれほど興奮されたか…』という印象深い一言がきっかけとの辞。
この会のシンポジウムでの登壇の先生も「考古学が学問ととらえられたのはようやく近代、柳田 國男氏が口にしたころ。当初は史料すら殆ど構築されておらずだったのが、半世紀以上を経て、今では「しばらく史料はいいです。向こう10年研究解明を必要とするほど満タンです」と言えるほど豊富になりました」と述べられていた。
●
今回の講演やシンポジウム各登壇者の内容を振り返って、7世紀を中心の、まさに孝徳帝から有間皇子~そして天武・持統帝への時代が要として用いられたのがとても嬉しかった。
今は丁度秋祭りの時期だが、その日本の祭事のきっかけになったのが7世紀の神宮形成(神への捧げもの)。父・孝徳帝から有間皇子へと紡がれる時代だ。
/難波に築かれた最大の宮で有間皇子は鸕野讚良(持統)と共に育ち、その後讚良の父・中大兄皇子(天智)の謀略死により紀伊国に眠る。/まさに大化の改新の構築へ向かう時期は律令国家として構築の要の時期、倭国が日本と称されるに至るときに有間皇子墓は造営される。
/この日の講話のなかでも、古墳が全国的になることで首長連合が共通認識されていった経緯が読み取れ、孝徳帝の時代には地方を先に改革、様々に深く推考、その後の律令へのリレーへと繋がったと触れられた。
/森浩一先生が「もしも有間皇子が中大兄を失脚させられていたら、白村江の戦で多くの日本人が悲劇を迎えることはなかっただろう」と絶筆『敗者の古代史』で記されていた一言があらためて脳裏に甦る…。
●
さぁ、私は今年も森先生に託された有間皇子墳の現地、御坊へ「有間皇子ことはじめ展」の在野喚起へ向かわねば~の東京から和歌山へ…。
東京でのシンポジウムを拝聴し一路、車を西への路傍にて…☆彡
●主催企画:2015『有間皇子ことはじめ』展示&講演・ライブ
11月14・15日開催(御坊市ヤナギヤ内)
■開催内容:
『古代史シンポジウムここまでわかった日本の古代史』(有楽町朝日ホール)
/主催:角川文化振興財団・朝日新聞共催
(福岡・大阪・東京開催)/9月27日東京最終回/全完売
●東京開催:
基調講演:映画監督・篠田正浩
/登壇者・白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館館長、ほか全9名/上野 誠(進行)・鈴木靖民・寺澤 薫・森 公章・森下章司・仁藤敦史・北川和秀・笹生 衛)/ 示唆指導:上田正昭京大名誉教授
※(今回の全シンポジウム内容は、来春角川出版から刊行予定)
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写真添付:講演中は撮影禁止。記者席からの掲載は自粛。/こちらはシンポジウム閉会時と会場入口と史料類photoにて。
/詳しくは長丁場なので筆舌尽くし難いが、基調講演となった篠田監督の「終戦のポツダム宣言後、これまで培ってきた古来日本の歴史を米国デモクラシーを隠れ蓑のお仕着せが滅却しようとした。私はこの国が古代から培い大切にしてきた“神話の国”という歴史を葬られないよう後世に繋がねばならないと思った」と発意を述べられたのが骨太に響く。
/私にとっては、有間皇子墳発見者である森浩一先生が和歌山御坊で生涯最後の講演後に亡くなられた訃報を当時同日パネラーとして出演者だった髙山由紀子監督に連絡を入れたところ「今、中国を篠田監督と取材同行中。監督は卑弥呼を調べておられて、その手に今持っていらっしゃるのが森浩一先生の本でした」と奇遇が重なったとのこと!
そのことを閉会後楽屋で篠田監督に伝えた(監督はこの日のお話でも森先生のことに触れられた)
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この会の指南役である上田正昭京都大学名誉教授(折口考古学師事)は、「朝廷成立の時期というのはとても重要な観点で、例えば倭国が日本、大王が天皇と称され方が変わった時期の探究などが東アジアとしての研究をも実り大きいものとなる」との開催の辞を寄稿。
/主催の角川文化振興財団・角川歴彦理事長は、「今回全国3回に分けての開催のきっかけは、上田正昭先生が『日本古代に関するここ50年の新発見はそれまでの何百年に匹敵する驚きに満ちている。松本清張さんやあなたのお父さん(角川源義)が存命ならばどれほど興奮されたか…』という印象深い一言がきっかけとの辞。
この会のシンポジウムでの登壇の先生も「考古学が学問ととらえられたのはようやく近代、柳田 國男氏が口にしたころ。当初は史料すら殆ど構築されておらずだったのが、半世紀以上を経て、今では「しばらく史料はいいです。向こう10年研究解明を必要とするほど満タンです」と言えるほど豊富になりました」と述べられていた。
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今回の講演やシンポジウム各登壇者の内容を振り返って、7世紀を中心の、まさに孝徳帝から有間皇子~そして天武・持統帝への時代が要として用いられたのがとても嬉しかった。
今は丁度秋祭りの時期だが、その日本の祭事のきっかけになったのが7世紀の神宮形成(神への捧げもの)。父・孝徳帝から有間皇子へと紡がれる時代だ。
/難波に築かれた最大の宮で有間皇子は鸕野讚良(持統)と共に育ち、その後讚良の父・中大兄皇子(天智)の謀略死により紀伊国に眠る。/まさに大化の改新の構築へ向かう時期は律令国家として構築の要の時期、倭国が日本と称されるに至るときに有間皇子墓は造営される。
/この日の講話のなかでも、古墳が全国的になることで首長連合が共通認識されていった経緯が読み取れ、孝徳帝の時代には地方を先に改革、様々に深く推考、その後の律令へのリレーへと繋がったと触れられた。
/森浩一先生が「もしも有間皇子が中大兄を失脚させられていたら、白村江の戦で多くの日本人が悲劇を迎えることはなかっただろう」と絶筆『敗者の古代史』で記されていた一言があらためて脳裏に甦る…。
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さぁ、私は今年も森先生に託された有間皇子墳の現地、御坊へ「有間皇子ことはじめ展」の在野喚起へ向かわねば~の東京から和歌山へ…。
東京でのシンポジウムを拝聴し一路、車を西への路傍にて…☆彡
●主催企画:2015『有間皇子ことはじめ』展示&講演・ライブ
11月14・15日開催(御坊市ヤナギヤ内)
■開催内容:
『古代史シンポジウムここまでわかった日本の古代史』(有楽町朝日ホール)
/主催:角川文化振興財団・朝日新聞共催
(福岡・大阪・東京開催)/9月27日東京最終回/全完売
●東京開催:
基調講演:映画監督・篠田正浩
/登壇者・白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館館長、ほか全9名/上野 誠(進行)・鈴木靖民・寺澤 薫・森 公章・森下章司・仁藤敦史・北川和秀・笹生 衛)/ 示唆指導:上田正昭京大名誉教授
※(今回の全シンポジウム内容は、来春角川出版から刊行予定)
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写真添付:講演中は撮影禁止。記者席からの掲載は自粛。/こちらはシンポジウム閉会時と会場入口と史料類photoにて。
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